【古代版自由の女神!?】世界の七不思議のひとつ、ロドス島の巨像を解説

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古代に建設された建造物の中には、人々を驚嘆させるような壮大なものがあります。
古代ギリシャの人々は、そのような建物を世界の七不思議と呼び、記録に残してきました。

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(画像)世界の七不思議

今回はそんな世界の七不思議のうちのひとつ、ロドス島の巨像を紹介します。
ロドス島の巨像は太陽神ヘーリオスを模った彫像で、紀元前3世紀頃に建てられました。
その巨像はロドス島の玄関口である港に立ち、島を訪れた人々を出迎えていました。

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(画像)ロドス島の巨像の想像図(1911年)

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(画像)ロドス島の巨像の想像図(1880年)

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(画像)ロドス島の巨像の想像図(16世紀)

そもそもなぜロドス島の人々はこの様な大きな像を建設したのでしょうか?
そのきっかけは、紀元前305-304年にかけてデメトリオス1世とロドス島との間で起きたロドス包囲戦にあります。
アレクサンドロス大王の死後、マケドニア帝国は分裂し、将軍達の間で後継者(ディアドコイ)争いが勃発します。これがディアドコイ戦争です。
当時ロドス島はディアドコイ戦争に対して中立を維持していましたが、ディアドコイの一人、プトレマイオス1世とは協力関係にありました。
プトレマイオス1世の対抗者であるアンティゴノス1世は、ロドス島の強大な海軍力を脅威に感じ、紀元前305年、息子のデメトリオスに40,000の軍を率いさせてロドス島へ派遣しました。
しかし、ロドス島の強固な守りにデメトリオスは苦戦し、紀元前304年、プトレマイオスの援軍が到着するとデメトリオスはついに撤退しました。
ロドス島の人々は、このロドス包囲戦の勝利を太陽神ヘーリオスに捧げる目的で、その彫像を建てることにしました。
建設作業はギリシャの彫刻家リンドスのカレスの指揮によって行われました。
その素材の一部には、ロドス包囲戦でデメトリオスの軍が残していった装備や武器の鉄や銅を鋳造したものが使われたといいます。
像の外装が完成すると、その内部には石が詰められました。
建設が進み、その高さが増すにつれて作業員達は新たな足場を組む必要に迫られました。そこで彼らは土で作られた足場を像の周囲に構築しました。
それはまるで巨大な蟻塚のようであったといいます。
建築途中の像は土で覆われていたため、その姿を目視することはできませんでしたが、カレスは勘を頼りに作業を進めました。
そして着工してから12年後、ようやく像が完成しました。
像が建てられた場所については、文献によってその記載がまちまちで現在でも正確な位置はわかっていません。
しかし、その大きさについてはほとんどの文献で内容が一致しています。
それに依れば、像の高さは約33メートルで、約15メートルの高さの大理石で作られた台座の上に立っていたとされています。
高さが33メートルと言うと、ニューヨークの自由の女神の身長とほぼ同じくらいです。

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(画像)自由の女神像

これは古代に作られた彫像としては最も大きなものだと言えるでしょう。
およそ50年以上にわたってロドス島の巨像は島の港に立っていましたが、紀元前226年、ロドス島を襲った地震によって膝からへし折れて、ついに倒壊してしまいます。
その後島の住民の間で再建の話が持ち上がりました。
しかしデルポイの預言者が、ロドス島の巨像は太陽神ヘーリオスに対する冒涜であり、像が崩れおちたのもヘーリオスの怒りを買ったためだ、と言って住民に再建を止めさせます。
しかし、地面に崩れ落ちてもなおロドス島の巨像は、その存在感を放ち続けていました。
古代ローマの学者、政治家である大プリニウスは、その様子をこう記しています。
”人々はその大きさに驚愕した。像の親指の全周を両腕で抱ける者はほとんどいなかった。また、像の指だけでもほとんどの彫像よりも高かった”。
およそ800年に渡って像はそこに横たわっていましたが、西暦653年、ついに解体されてしまいます。
イスラム教徒のムアーウィヤ1世によってロドス島が征服されると、像はばらばらにされてエデッサのユダヤ系商人に売却されました。それらは900頭のラクダに乗せて運ばれたといいます。
これによってロドス島の巨像は完全に消滅してしまいましたが、その存在は伝説となって後世に語り継がれました。
また現代に至って、2008年、2015年に像の再建案が巻き起こったものの、いずれも実現には至っていません。

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