【チャールズ1世】かつてイギリスに公開処刑された王がいた。そしてその後意外な形で果たされたその復讐とは?

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かつてイギリスに、大衆の面前で処刑された王がいた。イングランド王チャールズ1世(1600年 – 1649年)である。
王が公開処刑、というだけでもとんでもない話だが、実はこの事件はその後、さらにすさまじい方法で復讐が果たされる。
一体何があったのか?それは17世紀、ステュアート朝の時代に起きた出来事であった。

Credit:wikipedia

(画像)チャールズ1世

絶対王政を敷いたイングランド王チャールズ1世は、清教徒(ピューリタン)の弾圧や、議会を無視した政治を行ったため、国民や議会の反発を招いていた。
チャールズ1世の専横に耐えかねた議会は、王に対して「権利の請願」を提出する。これは、議会の同意無しでは何人も課税や献上金などの金銭の徴収が出来ないことを確認する請願書である。
そのような状況下、チャールズ1世がスコットランドにイングランド国教会を強制したことがきっかけで、イングランドとスコットランドとの戦争(主教戦争)が勃発する。
この戦いに実質敗北したチャールズ1世は、スコットランドに対する賠償金の支払いのため課税を余儀なくされる。
そこで議会を開かざるを得なくなったチャールズ1世だが、議会が王の専制を厳しく糾弾したため王と議会の対立が激化、王党派と議会派との内戦に発展する。これが清教徒革命(ピューリタン革命)である。
王党派はこの戦いに敗れ、チャールズ1世は議会に捕えられる。
この時、議会派の軍を指揮し、勝利に導いたのが、後にイングランドの独裁者となり、専横を振るったオリバー・クロムウェル(1599年 – 1658年)であった。

1649年1月27日、裁判によってチャールズ1世の死刑が宣告され、1月30日、ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で処刑が実行される。国王の公開処刑という異様な光景に対し、その場に居合わせた民衆はなんとも複雑な心境であったという。

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(画像)チャールズ1世の処刑風景。処刑台の上で覆面を被った処刑人がチャールズ1世の首を掲げている

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(画像)オリバー・クロムウェル

この後1649年から1660年までの間、イングランドは王の存在しない共和国となる。その実権を握ったのがクロムウェルであった。
独裁者となったクロムウェルは、アイルランドに侵攻し住民を虐殺したり、様々な娯楽を禁止するなど(クロムウェルは熱心な清教徒であった)、圧政を敷いた。
クロムウェルの死後はその息子が跡を継いだものの、父親ほどの政治的手腕は無かったため、軍や国民の支持を得られず政治に行き詰り辞任。
その結果1660年に、処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世が王としてイギリスに招かれ、王政が復活する。いわゆる「王政復古」である。

王位についたチャールズ2世は報復として、父チャールズ1世の処刑に関わった人物をことごとく処刑、投獄する。
首謀者の一人であったクロムウェルに至っては、この時すでに鬼籍に入っていたにもかかわらず、遺体が墓から掘り起され、晒し首とされた。

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(画像)クロムウェルらの処刑風景

こうして、チャールズ2世は父チャールズ1世の無念を晴らしたのである。すさまじい執念だ。

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