世界史の中で起こった血生臭い出来事と言えば、モンゴル帝国のホラズム・シャー朝征服を思い浮かべる人は多いだろう。
1219年から1221年にかけてチンギス・カン率いるモンゴル帝国が行ったこの征服行為によって、一説によれば当初ホラズム・シャー朝にいた200万人の人口が、20万人にまで減ったという。
しかも、この悲劇はホラズム・シャー朝の対応次第で回避できた可能性もあるのだ。
(画像)ホラズム・シャー朝
モンゴル帝国がホラズム・シャー朝を征服するに至った経緯は以下の通りである。
西遼(カラ=キタイ)を征服したモンゴル帝国は、ホラズム・シャー朝と国境を接することになった。その当時領土を拡大していた両国がそこで衝突しあうことは明白であった。
しかし、チンギス・カンは金(当時中国北部を支配していた王朝)の制圧に集中しようとしたためか、ホラズム・シャー朝と戦うことを避けようとした。
そのため、1218年、チンギス・カンは使節団を派遣し和平と交易を結ぼうとした。その際、ホラズム・シャー朝のスルターン(君主)、アラーウッディーンに「私は日出ずる地の支配者であり、あなたは日が沈む地の支配者である」と書かれた書簡を送っていた。
まるで聖徳太子が隋の煬帝に宛てた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と言う一文の様である。この表現は東方の国の王が西方の国の王に書簡を送る際の常套句だったのかも知れない。
アラーウッディーンはこの和平交渉に同意したものの、一方でモンゴル軍の戦場での蛮行を耳にしていたため、内心ではモンゴルを信用していなかったと言われている。
その後、チンギス・カンは再度商人や外交官を含む500人の使節団をオトラルの町に送るが、その町の総督イナルチュクが、その500人の使節団をスパイ容疑で逮捕し彼らの財産を奪ってしまう。
この知らせを聞いたチンギス・カンは、2人のモンゴル人と、通訳として1人のムスリム、計3人の使節団をホラズム・シャー朝に送り、総督イナルチュクの処罰と、逮捕された使節団の解放を要求する。
アラーウッディーンは、これに対し、送られてきた3人の使節団のうち、ムスリムの首を刎ね、2人のモンゴル人の顎鬚をそり落とした。そして逮捕されていた500人の使節団を処刑し、返答として2人のモンゴル人をチンギス・カンのもとに送り返した。
モンゴル軍の強さを侮っていたのかもしれないが、いずれにせよアラーウッディーンのこの対応は後に自らの国を滅ぼすことになる。
使節団を神聖なものだと捉えていたチンギス・カンはこの対応に激怒し、ホラズム・シャー朝征服を決意する。
まずチンギス・カンはシルクロード沿いの諜報部員から情報を収集し、軍を編成した。この時のモンゴル軍は、遊牧民族の特性を生かした騎馬隊をベースとしながらも、その他に投石機、破城槌や火薬等様々な戦術を取り入れていた。
1219年、10万を超すモンゴルの軍勢がホラズム・シャー朝に侵攻した。ホラズム・シャー朝の兵数は40万人以上であったとされる。
1219年末、この戦いのきっかけになったともいえるオトラルの町に到着したチンギス・カンは、5か月間の包囲戦ののち、町を陥落させる。そして多くの住民が殺されるか、もしくは奴隷にされた。
総督イナルチュクは、報復として両目と両耳に溶けた銀を流し込まれて殺されたと言われる。
ホラズム・シャー朝征服の際のモンゴル軍の残虐さを示す逸話として以下の様なものがある。
モンゴル軍は以前征服した町の市民を捕虜にして、彼らを最前線に立たせて攻撃したといわれている。敵の矢を真っ先に受ける最も危険な最前線に捕虜を立たせることによって、彼らを自軍の盾代わりに使ったのである。捕虜の後ろにはモンゴル軍が控えているため逃げることは出来なかった。
また、町がモンゴル軍によって陥落した時、多くの市民が一か所に集められ、まるで家畜の様に首を刎ねられ処刑された。刎ねられた首はまるでピラミッドの様にうず高く積み上げられたという。
「彼らは来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」
これは、ブハラ占領の際、町を脱出した男が町の様子を聞かれた際に返した言葉であるが、この簡潔な言葉にモンゴル軍の残虐さが全て表されている。
(画像)ウルゲンチに残る王宮の廃墟
モンゴル軍によってサマルカンドが陥落したのと同じ頃、アラーウッディーンは、数人の忠臣と彼の息子と共にカスピ海西南岸に浮かぶ小島アバスクン島に逃れた。
そして1220年12月、アラーウッディーンは息子のジャラールッディーンを後継者に指名し没した。死因は肺病とされているが、一説によれば国を失ったことによる精神的なストレスが原因であるともされている。
後継者となったジャラールッディーンは残党を集め軍を再編し、1221年春にパルワーンに進軍した。
チンギス・カンはジャラールッディーンの軍を討つため、パルワーンに兵を送った。パルワーン近郊でジャラールッディーンの軍とモンゴル軍との戦闘が繰り広げられ、驚いたことにモンゴル軍はその戦いに敗れる。ジャラールッディーンの大金星と言えるだろう。
敗戦の知らせを聞いたチンギス・カンは、ジャラールッディーンを討つため自らインダス川へと向かった。ジャラールッディーンはインダス川を渡りインドへ逃げる途中であった。そこに追いついたモンゴル軍とジャラールッディーンの軍との間で戦闘が行われる。これはインダス河畔の戦いと呼ばれる。ジャラールッディーンの軍はほぼ壊滅するが、ジャラールッディーン自身はインドへ逃亡することに成功した。
(画像)インダス河畔の戦いにて、チンギス・カンとモンゴル軍から逃れ、インダス川を渡るジャラールッディーン
こうしてホラズム・シャー朝はモンゴル軍によって滅ぼされ、チンギス・カンはそこにモンゴル軍を駐屯させて、モンゴルへと帰還した。
この領土は後に、チンギス・カンの息子オゴデイがさらに西へとモンゴルの支配を広げるにあたって、重要な足がかりとなる。
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