毒が効かない無敵の体を持つミトリダテス6世。大国ローマに強硬に抵抗した王の悲劇的な最期とは?

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毒殺は太古の昔から現代にいたるまで、暗殺の手段として広く用いられてきた手法である。
そのため、古代ローマの皇帝からソビエトの指導者スターリンに至るまで、あまたの為政者には毒見役が存在しており、食事の際はまずその毒見役に味見をさせることによって、毒殺から逃れようとしていた。

Credit:wikipedia

(画像)ミトリダテス6世

かつて黒海の南岸に位置していた国、ポントス王国の国王ミトリダテス6世(紀元前132年頃 – 紀元前63年)も、同様に毒殺を恐れていた人物であるが、その対策は一風変わったものであった。
彼はなんと自ら少量の毒を摂取することによって、毒に対する免疫をつけ、毒殺から逃れようとしたのだ。
実際、ミトリダテス6世はこの方法によって毒に対する免疫を獲得することに成功した。が、その最期は皮肉なことに、自らが獲得した毒への耐性が災いしてしまう。
一体何があったのか?
そこに話を移す前に、まずはミトリダテス6世の生い立ちを振り返ってみよう。

ミトリダテス6世は、ポントス国王ミトリダテス5世エウエルゲテスの長子としてポントス王国の王都シノーペで生まれた。
父ミトリダテス5世は共和政ローマと良好な関係を築き、王として良く国を治めたと言う。しかし紀元前120年、ミトリダテス5世は毒によって暗殺されてしまう。
その時、ミトリダテス6世は王位を継承するには未だ幼すぎたため、母ラオディケ6世が実権を握った。
母ラオディケ6世は、ミトリダテス6世の弟クレストゥスに王位を継がせようとしたため、暗殺の脅威にさらされたミトリダテス6世は王宮から逃亡し、数年の間身を隠して過ごす。
その間、ミトリダテス6世は、毒殺された父と同じ運命を辿ることを嫌い、少量の毒を自ら摂取し始める。先述の通り、毒に対する免疫をつけようとしたのである。
またこの頃、ミトリダテス6世は様々な薬草や材料からなる解毒剤を開発し、その後、その解毒剤は彼の名を取ってミトリダティウムと名付けられた。
自らの体に毒の免疫をつけ、さらに解毒剤まで開発してしまうとはまさに驚くべき才覚の持ち主だが、実際ミトリダテス6世は強靭な体と明晰な頭脳を合わせ持った優秀な人物だったそうである。

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(画像)ミトリダテス6世のコインの写し描き

その後、紀元前116年から113年のいずれかの間に、シノーペに戻ったミトリダテス6世は母を軟禁し王位の座に付いた。また、その地位をより確固たるものにするため、彼の兄弟も投獄された。
ローマと友好関係を築いていた父とは対照的に、領土的野心を持っていたミトリダテス6世は、周辺諸国を次々に勢力下におき、その後、紀元前88年から紀元前63年にかけて3度ローマと戦うことになる(ミトリダテス戦争)。
第3次ミトリダテス戦争にて、ローマの指揮官ポンペイウスに敗れ自軍を失ったミトリダテス6世は、黒海の北岸、クリミア半島のボスポロス王国まで敗走した。
ミトリダテス6世はそこで部隊を再編し形勢を立て直そうと試みるが失敗、紀元前63年には息子のファルナケス2世に反乱を起こされ、ついに最期の時が訪れる。
観念したミトリダテス6世は、名誉のため服毒による自害を試みた。
しかし、ミトリダテス6世はその毒で死ぬことは出来なかった。毒殺を恐れるあまり、毒に対する免疫を持っていたのが仇となったのである。
その後、ミトリダテス6世がどの様にその命を絶ったのかについては、2つの説がある。
1つ目は、側近に剣を渡し、自らを殺すように頼んだ、というもの、2つ目は、反乱軍の手によって殺された、というものである。

皮肉的な最期を遂げたミトリダテス6世であるが、彼の武勇はローマにとって最も手強い脅威の一つであったと伝えられている。

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