父の死後、マケドニア軍を率いてペルシア東征に向かったアレクサンドロス大王は、グラニコス川の戦い(紀元前334年)、イッソスの戦い(紀元前333年)等でペルシア軍相手に大勝を収め、エジプトに向かって更に南へと軍を進めた。
その途中、ティルス(Tyrus/テュロス、ティールとも表記)と言う都市の海軍力を脅威に感じたアレクサンドロスは、ティルスに対し開城を要求する。ティルスは東地中海に浮かぶ島に建てられたフェニキア人の都市で、強固に要塞化されていた。アレクサンドロスはティルスにあったメルカルトの神殿に生贄を捧げることを口実として、ティルスに入城する許可を得ようとしたが、ティルス側はこれを拒否し、アレクサンドロスとペルシアとの戦いに対して中立であることを宣言した。
ティルスのこの対応に対して、アレクサンドロスは数人の使者を派遣し、降伏か、あるいは征服されるか、の二択を迫った。ティルスの人々は、アレクサンドロスが派遣した使者を殺し、城壁から投げ捨てた。
アレクサンドロスはこれに激怒しティルスを征服することを決意する。これがティルス包囲戦(紀元前332年)の端緒である。
(画像)ティルス包囲戦のアレクサンドロス大王
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当時アレクサンドロスが保有する海軍は非常に小規模なものであったため、ティルス攻略のためには海戦以外の攻め方を考える必要があった。
アレクサンドロスが参謀達と協議している時、本土の岸とティルスの島をまたぐ海の水深が非常に浅いという情報が入った。この知らせを聞いたアレクサンドロスは、本土から島までを繋ぐ堤防を建設するように命じた。
部下達は本土にあった遺跡の残骸を使って堤防を建設し始めた。建設作業は当初順調に進んでいたが、その堤防が島に近づくにつれて、ティルスの艦船や城壁上からの攻撃が激しくなり、堤防の建設作業は次第に難航していった。
ティルスからの妨害を防ぐため、アレクサンドロスは約45メートルの高さの塔を二つ建て、堤防の先端に置いた。その塔の先端部にはティルスの兵を攻撃するためのバリスタと投石器が設置された。また、自軍を守るため、2塔の間には幕が覆われた。
この塔はティルスの兵からの攻撃を防ぐ上である程度機能したが、ティルスはすぐにその対抗措置を考え出した。火の付いた船を塔にぶつけて、塔を炎上させたのである。
これらの攻防を通じて、アレクサンドロスはティルスを攻略する上で、海軍の必要性を強く感じるようになった。
その頃、キプロスから120艘の船団とペルシアから離反した80艘の船団がアレクサンドロスの下に到着した。これらの援軍を得たアレクサンドロスは船に投石器と破城槌を積ませ、島を包囲するよう命じた。ティルスの兵がその船のイカリのロープを切断すると、アレクサンドロスはロープを鎖に変えるよう命じた。アレクサンドロスの船団による島の包囲は九か月に及んだ。
(画像)ティルスを包囲する船団
建設していた堤防が島の近くまで到達すると、アレクサンドロスは投石器によって城壁を攻撃するよう命じ、ついに南側の城壁が破壊され、そこから大量の兵士が城内になだれ込んだ。
アレクサンドロスは、神殿に避難していた者を除き、島の住人を全て殺害するよう命じた。
(画像)1934年に撮影されたティルスの様子。アレクサンドロス大王が建設した堤防は現代まで残されており島が陸続きになっている
この戦いによる死者は、一説によれば、アレクサンドロスの兵が約400人、ティルス側は約6000~8000人とされ、またティルスの住民30000人が奴隷として売られたとされている。
アレクサンドロスは勝利の証として、堤防を完成させ、また所有していた内のもっとも大きな投石器のひとつをメルカルトの神殿の前に置いた。
この戦いの後、アレクサンドロスはガザ包囲戦に勝利、その後エジプトに到達しファラオの称号を得ることになる。
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